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人材育成を制するものは天下を制す!家康流、後継者の育てかた

お子さんや新入社員、人を育てるのって大変ですよね(^^)

悩んでいる方も多いと思います。

歴史上の人物で引き継ぎに成功した人物は誰だったか覚えていますか?

そう。

徳川家康です✨

 

天下を統一して260年間の太平の時代を築いたすごい人物です。

2代目の秀忠にきちんと引き継ぎをしていたということですね。

家康の人を育てて引き継ぐ知恵について見ていきましょう☆

 

家康はわずか一代で弱小大名から天下人までかけ上がった出世のお手本のような武将です。

更に自分だけではなく、後継者育成の抜群の腕前を発揮しました。

我が子秀忠をあの手この手で育て上げ、天下人のバトンをしっかり渡しました。

そんな完璧に見える家康ですが、初めての育成は大失敗に終わっているのです。

その後継者とは長男の信康。

彼を育成するために家康がとった行動とは、、

現代でもよくある《ほめて伸ばす》でした。

ところがその方針が裏目に、家康人生最大の悲劇を引き起こしたのです。

いったい何が間違っていたのでしょうか?

 

その失敗を教訓に挑んだのが秀忠の育成でした。

幼い頃の秀忠は泥人形と呼ばれるほどぱっとしない性格。

そこで家康はチーム徳川を総動員して優秀な家臣たちを秀忠の育成に投入します。

家康のやり方をわかっている家臣たちが帝王学を叩き込んでいきます。

 

そして大阪夏の陣

徳川、豊臣の最終決戦で家康は自ら秀忠に残酷なまでの試練を与えます。

家族か?天下か?

家康が秀忠に課した最終テスト。

その壮大な目的とは何だったのでしょうか。

 

①ほめて伸ばす 長男・信康

家康は武田家と戦うため浜松城を本拠地と定め自ら防衛しました。

一方、前線から遠い岡崎城に12歳の信康を置きました。

まだ幼く大切な後継者・信康の育成を家臣たちに任せるという方針を取ったのです。

ところが信康は早く一人前になり、父と共に戦うことを望みます。

日々武芸の稽古に熱中し勇猛な若武者へと成長していきました。

そして17歳の時にその武勇を発揮する機会が訪れます。

静岡県小山城

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家康と信康は一緒に武田家のこの城を攻めました。

しかし城攻めの途中で敵の増援部隊が来襲してきたので撤退を決めました。

その際に信康は  ‘’しんがり‘’  を申し出ました。

 

 ‘’しんがり‘’  とは

撤退する軍勢の一番後ろで敵からの追撃を防ぐ危険な役割です。

 

家康は大事な跡取りを危険にさらすわけにはいかないと、その申し出を却下しました。

しかし信康は家康の決定を無視し  ‘’しんがり‘’  を強引に務め大活躍をしたのです。

武田家を押し返し、みごと家康を逃がすだけではなく自分自身も撤退することに成功しました。

本来なら命令無視で罰せられてもおかしくないのですが、家康はたくましく成長した我が子を「天晴れ」と大絶賛しました。

 

自分は父上を救った一人前の武将だと自惚れ、信康は大名の跡継ぎとしてふさわしくない乱暴をはたらくようになります。

やがて‘’信康が裏切る‘’という噂も流れ始めてしまい、もはや信康に徳川の未来を任せることはできません。

家康は苦しい決断をしました。

 

1579年9月15日 信康・切腹 (21歳)

 

信康を大事にするあまり

《自分の気持ちを押し殺してでも家を守る》

という当主のあり方を教えられなかった家康。

初めての後継者育成は最悪の結果と終わったのです。

 

②ものわかりの悪い子をどう育てる?

 新跡継ぎ・秀忠

兄の信康とはかなり性格が違っている秀忠。

泥人間と表現され、感情が乏しく少し鈍いようです。

そんな若者を後継者として育てなければならない骨の折れる育成が始まります。

家康は京にいる秀吉のもとへ11歳の秀忠を送ると決めます。

それは秀吉に人質になれという命令です。

豊臣政権の重役として他の大名に率先して人質を出すことは徳川の地位を守るための大事な役割でした。

ところが秀忠はそのことを十分に理解していなかったようです。

旅の途中、秀忠は秀吉からこんな手紙を受けとります。

「幼い身で長旅はつらいだろう。無理して京に来なくてもよいぞ」

すると秀忠はその社交辞令を真に受け京都行きをやめ戻ってきてしまいました。

人質を京都に送ることは徳川の大事な使命でした。

 

本来なら家康が付きっきりで秀忠を指導したい。

しかし家康は忙しくそんな余裕などありません。

そこで家康が行ったのが、信頼できるベテランの家臣と若い家臣をセットで教育係につけることでした。

 

後継者育成の知恵 その1☆

まず周りの人材を整えよ。

 

お金の取り立てという秀忠に向いていない仕事でも秀吉の命令であれば果たさなくてはなりません。

そこで百戦錬磨のベテランと、家康の意図を徹底して教え込まれた若手がコンビで強面ぶりを発揮。

上の命令は忠実に実行するという模範を秀忠に示しました。

 

ある日秀忠に豊臣秀次から一緒に朝食をとろうと誘いが来ましたが側近たちはこの誘いを無視し京都からの脱出を提案しました。

そこには組織の中で生き残るための鋭い判断がありました。

この時、政権ナンバー1の秀吉と政権ナンバー2の秀次との関係が悪化しているとの噂が流れていました。

側近たちは事前に何かあった時は秀吉側につくよう家康から指示を受けていたのです。

そのため側近は秀次側の動向をうかがっており、今回の誘いが秀忠を人質に取るための策略だと見抜きます。

こうして秀忠は側近の機転によって京都を脱出。

秀吉と秀次の争いに巻き込まれずに済んだのです。

組織の中で生き残るには常に上層部の動向に目を配るのが肝心。

秀忠は側近から家康の危機管理能力を学びました。

 

家康がそばにいなくても優秀な側近をつけることで家康の考え方を教え込む。

こうして秀忠は後継者として様々な資質を身につけていきました。

 

③トップの自覚を持たせる

関ヶ原に向かう前、秀忠は3万8000の大軍を任され中山道を進軍するよう命じられます。

秀忠が大軍を率いて登場となれば、天下に徳川家の後継者をアピールするチャンスです。

ところが関ヶ原に向かう途中、上田城の真田家と戦いを始めてしまいます。

小さな勢力の真田ですが経験の浅い秀忠は苦戦。

足止めをくらいます。

その結果、秀忠は関ヶ原の戦いに遅刻するという大失態を演じてしまいました。

目の前の敵に引っ掛かり大局を見失う秀忠にどう天下を治める器量を見につけさせればいいのか家康は悩みました。

ここで家康が思いきった行動に出ます。

自らが就いていた征夷大将軍職を秀忠に譲り渡してしまいました。

とにかくまずは将軍という立場に就かせてしまう。

そして実際に仕事をしながら天下を治める方法を学ばせるといった方法です。

 

また家康は銀の貨幣鋳造所を移転、運用するよう秀忠に命じました。

天下を治めるには戦だけでなく経済にも目を向けなければならない。

こうして秀忠は少しずつ天下人に必要なものを身につけていきました。

 

一方、家康はまだ若い秀忠には荷の重い仕事は自らが引き受けるという万全のサポート体制もとっていました。

こうして家康は段階を踏んで仕事を慣れさせていったのです。

 

後継者育成の知恵 その2☆

自覚を引き出す試練を与えよ

 

1615年 大阪夏の陣 家康73歳

幕府は豊臣秀頼を討つため15万の大軍を動員しました。

幕府軍の猛攻で落城寸前の大阪城

この時、家康の元に重要人物がやってきます。

秀忠の娘で秀頼に嫁いだ千姫です。

夫・秀頼の命を助けてほしいと、かわいい孫娘からの命懸けの願いでした。

でも今秀頼に情けをかければ再び徳川の天下を脅かす事態になるかもしれません。

すると家康は秀頼の除名を千姫の父・秀忠に頼むよう促します。

秀忠に判断を委ねたのです。

父・秀忠を訪れた千姫は自分の夫・秀頼の除名を必死の思いで訴えます。

家康が与えた試練に追い詰められた秀忠の苦渋の決断は、、

 

秀頼の除名を拒否。

 

秀忠は実の娘の願いを退け、天下を受け継ぐ身として冷血な判断を下したのです。

 

こうして炎に包まれる大阪城で秀頼は自尽。

豊臣家は滅び天下は徳川家の元で統一されました。

 

そして秀忠の決断を聞いた家康はこう述べたといわれています。

「これからは全て秀忠殿が決められよ。伺いを立てるは無用。江戸で決まったことを知らせてくれればそれでよい。」

この翌年、家康は秀忠の成長に満足し静かに息を引き取ります。

 

人を育てるには色々な方法があって、その時その時代に合った育て方を上に立った人は考えなければいけません。

ですが未来に繋げるために人を育成するという思いは今も昔も変わらず、家康が歩んだ失敗と成功の人生が現代を生きる私たちに様々な知恵を与えてくれます。